画家 日岡兼三さんの経歴・プロフィールについて紹介します。
漫画家 東村アキコさんの自伝的漫画「かくかくしかじか」で描かれた、強烈な恩師のモデルとしての日岡兼三さんに興味を持ったという方も多いでしょうね。
ぜひ、最後までご覧ください。
日岡兼三さんの経歴
1946年(昭和21年) 満州で生まれ、戦後 宮崎へ
1974年(昭和49年) 28歳 末原晴人氏の元でデッサンを学ぶ
1982年(昭和57年) 36歳 日岡絵画教室 主宰
1986年(昭和61年) 40歳 美穂さんと結婚
2003年(平成15年) 57歳 日岡絵画教室 閉鎖 永眠
日岡兼三さんのプロフィール
日岡兼三さんについて、人柄などを中心にまとめました。
日岡兼三さんの生い立ち
日岡兼三さんは、5人兄弟の三男として生まれました。
父親が病に倒れ、日岡兼三さんは高校時代から家業の手伝いなどで、一家を支え続けました。
幼いころから絵をかいたり物を作ることは好きで、絵に取り組み始めたのは、弟たちの大学卒業後(兼三さん26歳頃)からだと思われます。
末原晴人氏の元でデッサンを学び、日岡兼三さんのデッサン力は、末原先生からの「厳しい教え」と語る友人もいます。
末原晴人氏の元を離れてからも、日岡兼三さんが亡くなるまで交流は続きました。
また、そのころに出会い切磋琢磨した友人たちとの関係も続いていきました。
そして、日岡兼三さんは36歳で宮崎市に「日岡絵画教室」を開きます。
教室には、幅広い世代の生徒たちが通い、美大を目指す受験生も多くいました。
教室で指導しながらも、友人たちに支えられ個展や二人展・企画展を開いています。
日岡兼三さんは明るくユーモアがあり裏表もない反面、頑固な面もあるが、多くの人々に慕われ愛されていたそうです。
教育者として
日岡兼三さんは、絵画教室だけではなく、高校の美術教師としても教鞭をとりました。
単に技術を教えるだけでなく、生徒一人ひとりの内面や可能性に寄り添い、個々の表現を最大限に引き出すことに重点を置いていました。
また、非常に熱心な指導で、卒業後の人生にも影響を与えるような深い関係性を築く教育者であったことが、教え子たちの証言からうかがえます。

教育者としての日岡兼三さんは、東村アキコさんの漫画や映画「かくかくしかじか」を見ても一目瞭然ですね!
妻・美穂さんとの出会い
日岡兼三さんと奥様の美穂さんとの出会いは、運命的なものでした。
美穂さんのお母さんの絵の先生が日岡兼三さんで、画集を美穂さんに見せてくれました。
偶然同じころ、美穂さんの後輩が「日岡兼三さんという画家がいるけど、会いませんか」と誘われたそうです。
そして、運命的な出会いから数か月で、兼三さん40歳で美穂さんと結婚!
美穂さんも、「不思議な縁」とおっしゃっています。
美穂さんは、中学校の美術教師をしながら兼三さんを支えていました。
日岡兼三さんの創作への姿勢
日岡兼三さんは、様々な個展会場にも積極的に足を運び、テレビからも情報を取り入れ、常に新しい表現を探し続けていました。
「油彩」から始め、「水彩」、「アクリル」へ、さらに「墨」へ…
さらに、「絵画」から「陶芸」、「オブジェ制作」へと絶えず変化し続けました。
また、美術だけではなく文学や音楽も好きで、俳句のグループにも入っていました。
日岡兼三さんの晩年
日岡兼三さんは、平成13年に肺がんと宣告され病気療養中にも、作品の発表と絵画教室は続けました。
しかし、病気が進み目が見えなくなっていくと、デッサンの線もまっすぐに引けないと悟り、日岡絵画教室を閉じました。亡くなる数か月前でした。
「作品はたくさんの人の手が加えられることで完成度を増す」と語り、多くの友人や教え子たも参加し作品を完成させ、亡くなるひと月前に個展を開きます。
そして、亡くなる2日前まで制作を続け、平成15年に57歳で日岡兼三さん永眠。

本当に亡くなる直前まで創作の意欲を持ち続けて、たくさんの人に慕われていたのですね…。
日岡兼三さん
日岡兼三さんは、こんな方・・・
- どん欲に新しい表現を追い求め、多種多様な作品を残した芸術家
- 愛のある熱血的な指導で、卒業後も慕われる教育者
- たくさんの友人や教え子たちに愛された
「日岡兼三生徒の会」により「KENZO HIOKA 日岡兼三」という日岡兼三展のカタログが平成27年に発行さています。(このかとログの売り上げは、日岡兼三さんの作品の額装や保管に活用されるそうです。)
奥様の美穂さんや、友人・教え子たちが日岡兼三さんについて寄稿し、作品一覧も掲載されています。
また、本記事もそのカタログや、教え子の方々が投稿した記事などを参考にまとめています。
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